こんにちは。高橋貴子です。
今日のテーマは読む人にとってはもしかしたら辛い内容になるかもしれません。
それでも今の私は書きたいと思って書いています。
少し長くなるかもしれません。
ご興味ある方だけお付き合いいただければいいかなと思い書き綴ってみたいと思います。
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「嘘」という言葉に対して
あなたはどんな印象がありますか?
基本的にはネガティブな印象が強い言葉です。
嘘は人を騙すという印象もある言葉だからです。
私は倫理論者でもありませんし、
この件に関して道徳や説法を語るつもりもありません。
これから話す話はあくまでも私の持論です。
一般的には異なる見解もあるかもしれませんが、
私は私が思うようにお話をしていきたいと思います。
データーから「嘘」を見る場合、
人は大なり小なり嘘をつきながら
人生を生きているということには間違えありません。
小さな嘘は、きっとこのブログを読んでいる方も
ほとんどついたであろう些細な話です。
例えば、、
・遅刻しそうになって、本当は寝坊なのに体調不良と言ってみる
・この服どうかな?と言われて本当はあまり似合ってないと思っているのに
「いいんじゃない?」と言ってしまう
・本当は参加したくないのに、付き合いで参加してしまう会合
など、日常的に小さな嘘は潜んでいます。
でもこれは騙すというよりはある程度人間関係を
円滑するためのものであることも多いので
「嘘」というカテゴリーでひとくくりして
非難するのもどうかと思います。
もしも、自分が思ったことがすべて口から出てしまうような体になってしまったら
相当社会は生きにくい社会になる可能性が高いですね。
たしか昔に「世にも奇妙な物語」で思ったことをそのまましゃべってしまう口紅、
なんていうストーリーを見たことがあるような記憶があります。
ラストはどのような終わり方だったか覚えてないですが、
思ったことを全部伝えたら、言っている本人は楽かもしれませんが
それによって周りで傷つく人も多くでてくるかもしれません。
では、もう一方の「大きな嘘」。
これはどのような場合があるでしょうか?
ひとつふと思い当たるのが「生死」に関すること。
このあたりはとても難しい側面がありますよね。
重大な病気などは本人よりも先に家族に告知されることが多いと聞きます。
特に余命宣告的な重大な病気の場合には、
伝えるべきか伝えないべきか。
向き合うのは本当につらいことでもありますが、
私自身は、自分で残りの人生の過ごし方を決めたいので
やはり告知されたい派かなと思います。
性別での区分けだと特に男性はここは、二つに分かれることもあるらしいですね。
家族がいる場合にその後の対応を考えたいから知りたい人と
知らない方がギリギリまで望みを持って戦えるからという
メンタル部分から知らない方がいいという人。
どちらも正解不正解は無いと思いますが、、
もうこれは個人の考え方、生き方の領域ですよね。
例えば、真実を伝えられることによって
生きる希望を無くしてしまうタイプの人にはもしかしたら
「嘘」をつくことで長生きできる気持ちを持たせることができるかもしれません。
嘘には、2種類の嘘があって
・ホライトライ 【white lie】
善意の嘘 悪意のない嘘
・ブラックライ 【black lie】
悪意のある嘘
という形で区分されるそうです。
詐欺師とかの部類はブラックライに入ると思いますし、
先ほどの告知についてはホワイトライの部類での対応も多々あると思います。
ふと思ったのですが、おそらく私の母などは、
最後まで私に「嘘」をついて、逝くんじゃないかと思っています。
本当は、体調が悪いのに「大丈夫」と強がってみたり、
本当は、大変なのに「平気だから」と言ってみたり。
今までの傾向からして、「私に負荷をかける」ことについて
徹底的に排除する性格なので、なんか私は嘘をつかれるような気がしています。(苦笑)
きっとそれは私においても同様で
母に心配かけたくないからという観点で
「大丈夫」という言葉を使ったことは幾度もありました。
もちろん、こういう時には素直に甘えてしまって
「本当はつらいんだよ」ということが世間的には正解かもしれませんが、
必ずしも皆がそれをできるかというとそうでもないことも多いように思います。
このようなタイプの嘘はカテゴリー的にホワイトライに入るかと思いますが、
とどのつまりの「嘘」の観念と概念は
あくまでも
「自分視点」での「嘘」という領域にしている事を
理解しなくてはいけないと思います。
少し理解しにくいですよね。
もう少しわかりやすく言いますね。
「嘘」そのものは一般的には良いものとはされていません。
百歩譲ってホワイトライまではまだあり、ということでしょうか?
ただ、一つ私たちが知っておくべきことは
「嘘と真実の境界線」。
自分にとってそれが嘘であっても
相手にとってはそれが真実と感じているものであれば
同じ事象が全く逆の性質を持つことになります。
時に人は「知らない方が幸せ」である場合もあります。
上記病気の件も、向き合う強さが無い人は告知無しで
最後まで頑張りたい人もいるかもしれないし、
私と母のような関係性だと
下手に負担をかけて辛い思いをさせるほうが辛いタイプの人もいます。
だから、人によっては、
真実を知らない方が幸せという場合だってあるのです。
嘘という事象をどちら側から見るか、
それによっては嘘だって真実になります。
見る側が変われば、、です。
だからといって誤解をされては困るのですが
「嘘」を推奨しているわけではない、ということを理解してください。
白か黒かレベルで語れるものではなく、
グレーの部分も多いのが人の嘘に関わる領域。
だからその境界線はかぎりなく曖昧になる場合もあるのです。
もちろん、すべてクリアで全く嘘の無い人生を送れるならそれに越したことありません。
誰にもひとかけらの嘘もなく生きて来れたし、
これからもそう生きると決めている方は
そのままの形でいいと思います。
自分に正直に生きることがきちんとできている方ですからね。
でも、もしも「嘘」という領域で自分を作ったりして
生きてきたとしても、そんな自分を責めることは無いと思います。
虚勢を張ることで頑張る自分を演出することだってありますからね。
根っからの悪人は罪悪感すら感じませんから。
もともと誠実な人ほど、嘘をついた自分に
罪悪感を感じたり、自分自身をせめて追い込んでしまう人も多いけれど
人はもともと嘘をつく生き物
これがデフォルトであれば、
自分自身も、また相手に嘘をつかれたことがあったとしても
そこまで傷つくことはないかもしれません。
信頼するな、と言っているのはありません。
悲しいかな、良かれ悪かれ人はある意味嘘をつくのが普通、
と思うと自分が嘘をつかれる側になったとしても
受け入れることができるのではないかと思ったのです。
例えばその嘘がホワイトライだった場合に、
私はおそらくその人を責めることはできないと思います。
ちなみに、嘘というのは、
「嘘である」という側面を自分が感じたときに
初めて「嘘」になります。
だから、私を騙そうという人は最後まで騙していただけるなら
それはある意味真実になります。(苦笑)
嘘をつく本人にとってはそれは嘘かもしれませんが、
私にとってそれが嘘を知りようがない場合はそのこと自体が真実です。
だから、嘘と真実の境界線はあるようでないし、
見る側と立場の違いによって真実が入れ替わるということです。
起こっている事実は「誰が見ても変わらないこと」ですが
真実には感情が入ります。
その人の見え方の側面から見た事象になります。
だから事実と真実は違うのです。
というか、、あえて、
自分で欲しい「真実」を作ることだってあります。
だから、嘘は嘘であって嘘でないかもしれないし、
真実も真実であって真実でないかもしれません。
だから、誠実な人ほど嘘に対して潔癖性を求めたりして
自分を追い込むこともあると思うのですが、
嘘には感情も付きまといそこには人の数だけの真実があるわけなので、、。
何のための嘘だったのかを自分が自覚していけば
それに対する対処はいつからだってやり直しができると思っていて。
やり直しができるのであれば「嘘は真実」にもなる。
そして、自分が嘘をつくことを苦しいと思う人間だと自覚したときには
少しずつその嘘を減らしていく、それだけでいいと思うのです。
もちろん、まったく嘘の無い人生を送ると決めて行動できるなら
それは素晴らしいことだと思っています。
ただ、思っていることをすべて正直に口にだすこと。
これが嘘をつかないことではありません。
相手をいたわり、思う故につく嘘=ホワイトライは
やはり時として使うこともあると思います。
そんな時には、嘘と真実の関係性を理解して
上手に嘘とつきあっていくことだって
ありなんじゃないかと思うのは私の持論です。
清廉潔白な嘘の無い真っ白な世界。
もちろん、それはそれで素晴らしい事だと思いますが、
「優しい嘘」だってグレーゾーンにおいておける、
そんなぐらいの曖昧さがあったほうが
楽に生きていけるような気がします。
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