こんにちは。高橋貴子です。
本日は
「ココシャネルの言葉より~常識への嫌悪~」
についてお話をしたいと思います。
こちらの本に、シャネルが言ったこととして書かれている言葉で
「秩序にはうんざりする。無秩序こそがラグジュアリーなのだ。」
というものがあります。
なんとも素晴らしい言葉です。
私が使っている「飛常識」という言葉に非常によく似た言葉だと思います。
単純にラグジュアリーという言葉を辞書でひくと「贅沢」「高級感」という意味です。
そして、
シャネルが言っているラグジュアリーというのは
「美」であったり「美意識」の部分がありつつ、
「常識への嫌悪」というものも持っていた人なので、
社会の常識のようなものに彼女をハメ込もうとする人たちに苛立ち、
自分の頭の中に秩序を押し込もうとする人を嫌っていたらしいです。
おそらく自由をすごく愛した人だったと思います。
秩序というのはたしかに社会生活を営むうえで最低限必要なルールではあります。
けれども、
自由にふるまえることから発想の豊かさが生まれたり、
それによって化学変化が起きたり、それによって人と人との関わりで思わぬものが生まれていったりもします。
それが出来るのであれば「無秩序こそラグジュアリー」と思うのは、私もすごく同意見です。
ルールの中に自分をハメようとすると自分もやはり窮屈になります。
クライアントさんとお話をしていて言葉を聞いて「あれ?」と思ってお尋ねをすることがあります。
「〜しなければならない」とか「〜しなければいけないんです」という言葉を多く使う人に対しては、なぜそう思うのかを訊いたりします。
彼女の中では「〜しなくてはならない」という強迫観念のようなものや、
たとえば「妻はこうあるべき」「こどもに対してこう接するべき」というような「べき論」があって、
自分が本当は「できない」「やりたくない」と思っているのにそれをしようとするから、
そういう言葉を使うんだと思います。
本来であれば、それに対してすごく楽しんで向かえているならば「〜ねばならない」という言葉はおそらく使いません。
だから、
何かをしなければならないと思っている相手には、
なぜそれをしなければならないのかを私から訊くことがあります。
そうすると、本人はそうするのが当たり前だと思っているから、
そんな質問をされるとは思っていないわけでです。
でも、一歩ひいた他人である私からお話をさせていただくと、
必ずしもそうしなくてはならないというわけではなく、
他のやり方でも問題を解決できるのではないか、というお話になることがあります。
ご本人はそれしかないと思っているけれども、
ちょっとひいた目で見ると解決策ややり方が何通りか見つかることがあります。
一点集中して視界が狭くなっているとその答えが見えなくなってしまうことがあります。
枠組みの中に自分で自分をハメ込もうとすると、
結果としてそこから身動きがとれなくなってしまいます。
何か自分が窮屈な気持ちを持っていて、息苦しい、ツラい、と思ったら、
いちど自分が持っている観念を取り外したらいいと思います。
そうすると、これまで違った発想やアイデアが出てきたりします。
そして、もうひとつ、すべてを自分の力で解決しようとしないことです。
誰かの力を借りることで案外と簡単に解決できてしまうこともあります。
私もここは非常に苦手なことでした。
最近は「この人に助けてもらったらうまくいくかも」というのが随分と上手になってきて、お願いをできるのようになったので良い感じです。
でも、ここのところが非常に難しいんです。
だから、「他の人には頼みにくい」という人の気持ちもすごくよく分かります。
とはいえ、
解決策が自分の枠組みの外にあるのであれば、
素直に甘えたりお願いをしたりすることで、
もっと世界が広がっていきます。
まずは常識というものを疑ってみる。
無秩序こそラグジュアリーであるという素敵な言葉もありますので、
そんな観点から「無秩序」を愛してみても良いのとではないかと思います。
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