こんにちは。高橋貴子です。
本日は
「ココシャネルの言葉より~好きな花束何ですか?~」
についてお話をしたいと思います。
シャネルは花束が嫌いで、椿=カメリアが一輪あれば充分と言っていたそうです。
どういう事情や理由があったのかは本にも載っていないのですが、
彼女は香水を身につけることも愛した人だったので、
おそらく椿の花は香水の香りと被らないということと、
ゴージャスということではないのだけれどもシンプルに美しいということで言ったのではないかということが載っています。
それから、一般的に日本では不吉といわれていますが、
椿の花は枯れるときに、首のところからポトリと落ちるので
その絵姿が、ウジウジと枯れていくのではなく、
いさぎよい落ち方をするところでシャネルの好みだったのかもしれないと書いてあります。
ところで、
花というよりも木なのですが、私の好みでは、桜です。
一期一会という言葉を座右の銘にしているのですが、
桜は毎年かならず咲きますが、そのシーズンが終わるときにはいさぎよく散っていきます。
桜吹雪は本当に美しいと私は思っていて、桜は散るからこそ美しいと言った人もいます。
もちろん、満開の桜も好きです。
写真関係の友人メンバーと以前に、
深夜2時半くらいに出発して7時くらいに高遠の桜というのを見に行きました。
本当にドンピシャで満開の時期に行ったのですが、
満開の桜を朝から晩まであれほど撮りたいほうだいに撮ったというのはちょっとないです。
途中でご飯を食べたり温泉に入ったりはしたのですが、
7時間くらい撮り続けて、すごく幸せな時間でした。
桜というのは華やぎという部分もありつつ、
そこはかとない物悲しさもあり、ソメイヨシノの薄いピンクがパーっと散るイメージが良いです。
まるで花火が咲いているような枝垂れ桜も大好きなのですが、
満開の華々しさはソメイヨシノであり、そして散るときのいさぎよさが私は大好きです。
「いさぎよい」ということが私のひとつの人生のテーマになっているのかもしれません。
執着をしない人生を送ろうと考えたのはいつくらいだったでしょうか。
執着をすると自分がいろいろな面で苦しくなるんです。
物欲もそうだし、恋愛などの感情論もそうだし、
対人人間関係もそうですが、
執着をするとその分だけ感情の起伏の幅が大きくなってしまいます。
たとえば、
すごく親しいとこちらが思っていて向こうはそうでもなかったという人が自分から離れていくときに「どうしてだろう?なぜだろう?」と考えてしまい、
どんどん自分の内側に要因を探しにいってしまったり、
逆に外に向かって攻撃的に相手の悪いところを探していってしまったりする人がいます。
これらは執着が原因になっているのだと私は思っています。
教室運営のことでいうと生徒さんが離れていくときで、
執着をしていると「なぜだろう?どうしてだろう?」と考えてしまうのですが、
「楽しいと思ってくれていた時間が終わった」だけのことだと考えられれば、
離れていくことは寂しいのだけれども、
向こうにとっても自分にとっても卒業の時期が来たのだと思うことができます。
人が入れ替わらないと教室の新陳代謝もできませんからね。
自分がもし新しいことにチャレンジをしていってどんどん変わっていこうとするのであれば、
とうぜん、付いてこれない人は出てきます。
その脱皮をするというか、
変わっていくときに離れてしまう人がいるのも仕方ありません。
だから、過去にあまりとらわれすぎないということと、
作るべき未来に向かって変わっていくことによって何かなくなるものがあったとしても、
それほど気にすることではありません。
私の大きなテーマとしては桜の花になぞらえて、
パッと散るいさぎよさと、執着しない心というものがあります。
これをひとつのヒントとしてみなさんにお伝えをできたらいいと思います。
ぜひ、ご参考になさってください。
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